この本をはじめて読んだのはだいぶ前ですが、東日本大震災があって、もう一度読み直しました
阪神淡路地区を大地震が襲った日、36歳の仙田希美子の平穏な人生も崩壊が始まります
希美子の夫は地震の直後に愛人のもとへ行き、姑もその存在を 認めていることが発覚します
離婚を決意した希美子は、両親や妹たちに支えられ再出発をはかり、学生時代に知り合った老婦人毛利カナ江から奥飛騨の広大な 森と山荘を相続し、息子二人と移り住むことになります
そこで毛利カナ江の過去の秘密に触れ、それが次第に明らかになって行く…というお話です
このお話自体の感想ももちろんあるのですが、もう一度読み直そうと思ったのは、このお話のところどころに当時の政府やマスコミに対する作者の思い・ 感じ方みたいなものが登場人物の口を通して語られているのを覚えていたので、今回の東日本大震災のときと比べて政府やマスコミの対応はどうだったのか、菅首相は「リーダーシップが取れない」云々と言われて批判されていたけど果たしてそうだったのか、阪神淡路大震災のときの経験が東日本大震災に活かされたのかどうか…などなどを知りたくなったからです
もちろん、このお話自体はフィクションですから、当時の状況がそのまま書かれていないかもしれないし、作者の考えで書かれていることだから事実と異 なる部分もあるかもしれないとは思うのですが、それを踏まえた上で読んでも、「まんざら間違ってはいないだろう」という感想を持ちました
お話の内容よりも政府やマスコミに関する箇所で目に止まった箇所について、書き留めておきたいと思います
まず、地震が起きた後、神戸から歩いて夫の同僚のマンションに辿り着いたときの、同僚の妻の言葉です
「希美子さんの気持はよくわかるわ。私だって腹が立っちゃう。地震が起こって八時間もたつのに、為す術もなく、慌てふためいているだけだもの。なさけない政府…」
こういう状態は阪神大震災のときも東日本大震災のときにも誰もが感じたことだった気がします
「想定外」という言葉がよく使われましたが、想定内のことしか起こらないだろうという認識からしてどうなんだろう…と思っていました
防災対策も過去に起こった災害を元に基準を設けるわけで、それは当然と言えば当然だけど、それじゃあ過去に起こった災害よりも大きな災害が起きたらお手上げですよ〜と言っているように聞こえてしまいます
原発に対しても津波に対しても地震に対しても、「安全の確保」が語られますが、人間が想定できる規模以上の災害が起こる可能性は否定できないわけだし、何を以て「安全」とするのだろうと考えてしまいます
それにしても、このおそまつな救援活動は、いったい何だろう。こんな焼け石に水のような救援活動しかできない国を先進国だと呼べるのだろうか…。
東日本大震災でも救援活動がスムーズに行ったとは言えなかったように思います
津波の被害で自治体自体が機能しなくなってしまったところもあったし、津波で浸水して孤立してしまった場所に避難した人たちもいて、それを把握するのに時間がかかったのでしょうし、津波が家屋や車などを押し流し、大量のがれきが散乱したことも救援活動の妨げにもなったのだろうし、電気・ガス・水道などのライフラインがやられてしまったことも大きかったと思います
私は、救援活動がスムーズに行ったかどうかは置いておいて、政府も警察も消防もそれなりに一生懸命やっていたのではないかと思ったし、思いたい…そういう気持ちでいます
こういう状況でスムーズに行かないのは「想定内」でしょうし、過去の災害の経験が活かされたかどうかが気になります
政権が変わっても防災や社会福祉などに対しての知識や経験はきちんと受け継ぎをして、ちゃんと活かしてよりよいものにしていってほしいですよね
「この国の政治家の無能を、この目に焼きつけておこうと思って、テレビをつけてんだけど、この近くから逃げ出して来たお姉さんには、刺激が強すぎるわね」
「総選挙で大敗した自民党が、おんなじように大敗した社会党と組んで、つまり魂の売り買いをしあって作った政権なんだもの。いざってときに無能なのは当たり前よね」
「政治屋ってのは、自分たちの権力を守るためなら、もう何でもありなのよ。選挙に通るか通らないか。それ以外のことは頭にないのよ。猿は木から落ちても猿だけど、政治家は選挙に落ちたら、ただの人になるってのは、ほんとに名言よね」
こういう文章を見ると、作者の宮本輝さんが政府に対してかなり不満を持っていたのだなあと感じます
私が東日本大震災が起こってテレビに釘付けだったとき、衝撃的な光景に不安と恐怖を覚え、祈るような気持ちで一人でも多く助かってほしいと思ったし、原発事故がこれ以上悪化しないでほしいと思ったし、災害対策本部を担っている政府の人たちには「私は何もできないけど、全力でどうにかしてほしい」というお願 いする気持ちだった気がします
批判するのは簡単だけど、その場でその責任を負っている人は行動している人だし、そのやり方がいいか悪いかは別として、今動いている人を批判的な視点でしか見ないのはどうなのかなあという思いがします
批判するのではなく、まずい点に気づいたのなら「こうしたほうがいいのではないか」とアドバイスして、政党を超えてみんなで協力し合っていくことってできないんでしょうか
東日本大震災のほとぼりが冷めはじめた頃から(まだ事態は収束していない時期でしたが)、ようすを伺いつつ政権批判が始まったように感じました
この震災をどうにか「利用」して政権脱却を目指そうとする人あり、政権を安定させようとする人あり、と言った感じなのでしょうか…
政治家が選挙のことしか考えていないっていうのは、私も時折感じることです
選挙が近づくと国民を思いやった法案があっさり通ったり、ニュースでも「これは選挙戦を睨んでの…」みたいなことを言ってるし、そんなことで法案が通ったり通らなかったり、政策が決まったり変わったりされちゃたまったもんじゃないわ
「私、お国はわざと火を消さないんじゃないかって気がしてきたの」
「どうして?」
「いっそ、きれいさっぱり焼けつきてくれたほうが、神戸の都市開発の大義名分ができるし、そうなったら大手の建設会社は大儲けできて、政治家はそこでまた甘い汁が吸えるわ」
「この非常事態の最中に、そんなひどい計略をおもいつくかしら」
「思いつくわよ。それが政治屋ってやつなのよ」
「知沙は、政治家がよほど嫌いなのね」
「私が嫌いなのは、政治家じゃなくて政治屋。この国に政治家っていえるのは、ほんの二、三人かもしれないわ」
「政治家」と「政治屋」の区別が私にはイマイチわからないのですけど、真の政治家という意味の「政治家」は少ないというのはわかる気がします
「政治屋」とは、あたかも国のことを考えてますよ〜国民のことを第一に考えてますよ〜というアピールをしてるけど、実は自分のことや自分の所属する政党のことばっかり考えているような政治家のことを言うのでしょうか
だとしたら、「そのとおり」って感じもします
「(義援金を)お国の機関に渡したくないのよ。悪い政治家たちのポケットに入っちゃいそうで」
もしそうだとしたら…ほんとにショックです
義援金は人の善意の塊ですよね
それをネコババできるような人は、地獄があったら即地獄行きです
そんなことをする人には良心がないのでしょうか
どんなふうに集められたお金かは頭になく、「カネはカネ」って認識なのかなあ…うーん
「だって、この一週間のことを思い出してごらんなさい。総理大臣なんて、対応のあまりのまずさを指摘されて、『なにぶん初めてのことなので』って言ったのよ。耳を疑っちゃいますよ」
当時の総理大臣ってたしか眉毛の長い村山富市さんだったと記憶していますが、こんなことほんとに言ったのかしら…?とちょっと調べてみたら…本当に言ったみたいです
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E5%B1%B1%E5%AF%8C%E5%B8%82#.E9.98.AA.E7.A5.9E.E3.83.BB.E6.B7.A1.E8.B7.AF.E5.A4.A7.E9.9C.87.E7.81.BD
もうほんと、終わってますね…
大丈夫か、日本…
菅首相が福島原発の事故を受けて「一丸となって頑張って行きたい」という旨の演説をしたとき、「感動させてる場合じゃない」なんて批判されてたけど、私はちょっと頼もしく思ったし、この村山さんの「なにぶん…」発言に比べたら評価されてもいい演説だった気がします
「死者はまだ増えつづけてるんでしょうか」
「下手をしたら七千人近くになるんじゃないかって話ですね。自分はいっさい手を汚さない『人権屋』が鬼の首を取ったみたいに国のおそまつぶりを責めるでしょうな」
「人権屋?」
「正義のうしろだてをすることを商売にしてる連中のことです。広く言えば、マスコミもそうですね」
この部分、実はこの本の中でいちばん心に残ったところです
宮本輝さんが具体的に誰を「人権屋」と言いたかったのかわからないのですが、私は広く言わなくてもマスコミこそが人権屋だと感じました
東日本大震災のとき、テレビ局各局が自社ヘリを飛ばし、取材に赴いていましたが、どのテレビ局も同じような場所に同じようなことを取材しに行き、中には「ここの地区には未だ救援物資が届いていません」と沈痛な表情でレポートする映像もありました
そのとき、なぜその自社ヘリに救援物資を積んで行かないのだろうかと思いました
政府の対応の遅さをレポートするためだけに自社ヘリを飛ばし、何も渡さずに帰って来たのだとしたら、何なのだろうと思います
震災の翌朝、まだ被害状況が把握できていないときに取材用のヘリが何機も飛んでいたけど、そのヘリを利用して「あっちに孤立している人がいる」とか「ここ に生き延びた人がいる」とかいった情報を収集してくれたらよいのに…食べ物や防寒着なんかを運んであげればよいのにと思いながら見ていました
マスコミを通して知ることのできる情報はたくさんあって、マスコミの必要性は感じますが、批判ありきの姿勢や衝撃映像を撮ろう・感動映像を撮ろうというスクープ狙いが優先してしまっては、人間としての本質を見失い、津波で友だちを亡くした子供に「友だちが死んじゃってどう思う?」なんて質問をしてマイクを 向けるといった行動になってしまうのでしょうか…
私は悲しみや苦しみで言葉を詰まらせている人にマイクを向けつづけている映像がたまらなくいやです
もうそっとしておいてあげてほしいと思ってしまいます
「私は右翼でも左翼でもないけど、この日本て国は、これから先、衰退の一途を辿って、滅びてしまうような気がする…」
「上は大臣から下は町会議員、村会議員に至るまで、そのほとんどが金の亡者。公務員は事勿れ主義。国民は、人間としての行儀とか教養を積まないままおとなになって、自分たちよりもさらにレベルの低い子供を産んで、その子たちはおとなになって、さらにレベルの低い子供を産むの…。この日本て国は、もうおしま いね」
そこまで言っちゃうかって言う気もするのですが、まんざら外れないと感じてしまう私…
議員という肩書きがつく人たちが金の亡者で、公務員の事勿れ主義っていうのは言わずもがなですが、モンスターペアレンツの問題とか、教員によるさまざまな不祥事なんかを見ていると、親が悪い・教師が悪いというより、人間全体のレベルが下がっているという気がしてしまいます
「やっぱり、この日本て国はもうおしまいね。教養のある侍みたいな男はいなくなったし、かしこくて品のある女もいなくな る。マンボちゃんの人間学の寺子屋がほんとに必要なんだろうけど、この国の未来を憂うなんて声高に叫んでる評論家や大学教授たちだって、銀座のクラブで酒 臭い息をしてホステスのお尻をさわってるんだもの」
爆笑!!
外では「男性も家事や育児を積極的にする時代です」なんて言いながら、家に帰ったら「メシ、フロ、ネル」しか言わないような感じかしら?
私は男じゃないからわからないけど、クラブやキャバクラに言ってはしゃぎたくなってしまうのが男ってものらしいし、それくらいはまあいいかという気もしますが、偉そうなことを言っておきながらも所詮は欲望の塊の人間でしかないってことなんでしょうか…
あと、ワイドショーなんかに出てくる「評論家」って何なのだろうとは思います
評論家っていう職業があるのかな?
「何でもかんでも批判家」のほうがいいんじゃないかと思っちゃいます
「ぼくは上手に言えないんだけど、この国を動かしている人たちは、いろんなことに対して畏敬の念がないんだと思うよ。宇 宙ってものに対する畏敬、大自然への畏敬、優れた芸術への畏敬、学問に対する畏敬。それがないから、民衆をいつも小馬鹿にしてるんじゃないかな。政治家だ けじゃなくて、教育者たちもおんなじさ」
たしかに、これはそのままそのとおりだと感じました
先にも述べましたが、自然災害に対しての「100%の安全」を求めているところだって、自然を人間が完全にコントロールできると思っているからなんだろうし、「畏敬の念」のなさが表れていますよね
でも…これはきっと、政治家や教育者だけじゃなく、一般市民にも当てはまるのかもしれません
「携帯電話も怖いねん。あのとき、携帯電話一回二千円ていう商売をしてた人がおってんで。『携帯電話を持ってたら貸して下さい』って頼んだら、二千円で使わしてやるって。二日間で十二万円儲けたって。その噂を聞いた人らが怒って、袋だたきにしたんや」
災害で食べ物がなくて困っている人たちに無償でおにぎりを配ったコンビニの店員もいれば、こうやって金儲けを思いつく人もいる…いろんな人がいるのだということを感じます
東日本大震災が起こった後、日本人が暴動や略奪を起こさずにいることを世界中が称賛しましたが、義援金詐欺被害もあるし、被災地での空き巣被害は震災前の何倍もあるとのこと…
やはりここでの日本人のレベルが下がっていることを感じてしまいます
そんな人たちばかりじゃないとは思うけど、今となっては後からぽろぽろ出てくる福島原発事故への対応のまずさも重なって、世界中から称賛を受けたことが恥ずかしく思えてきます
東日本大震災はまだまだ復興に向かって進みはじめたとは言えない段階で、被災者だけでなく、日本すべての人にとっては大きな問題で、このことから学べること・わかったことはたくさんあるはず…
それを元にこれからどうしていったらいいのかを真剣に考えて行かなくちゃ…と思います
INFORMATION:
アマゾンの「森のなかの海〈上〉」のページ